体験談(証し)

日本同盟基督教団
西大寺キリスト教会(Saidaiji Christ Church)

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神様に喜ばれる人に(中学生、女性)

 私は、赤ちゃんの時から教会に通っています。だから、大きくなっても毎週教会に行くのがあたりまえでした。サムエル幼児園に入り、小学三年生の時にSICAに入りました。四年生くらいまでは、イエス様を信じていました。でも、五年生くらいから不安になりました。

 小学生バイブルキャンプの西村先生のメッセージで、イエス様は私のために十字架にかかって死んでくださったことを改めて知り、うれしかったです。涙が出てきました。それでも、六年生にはまた不安になり、こひつじ会の時、赤江先生が「なんでも質問していいよ」と言ってくれたので、私は「なぜ先生はイエス様がいると信じられるのですか」と聞きました。赤江先生は、聖書を開きながら教えてくれました。私は不安が少しとれました。

 そしてグッバイ小学生を始めたころ、お母さんに「友達のこともお祈りするのよ。」と言われました。私はまだ、自分がイエス様を信じていると確信していないのに、友達のことをお祈りすることは無理だと思いました。そして、家庭礼拝のお祈りの時に泣いてしまいました。そのあと、お母さんと二人で話しをして、お母さんがこう言ってくれました。「あなたが迷っていても、神様があなたを固く握ってくれているから大丈夫だよ。友達のことはすべて神様にお委ねしよう。」といっしょにお祈りしてくれました。私はその時から、私は神様を信じていると思えるようになりました。

 私は神様のことが大好きです。そして迷ったり、不安になった時は神様に何度もお祈りします。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7・7,8)

 私はお祈りするとすっきりするし、神様にすべてをおまかせしようと思って、安心して夜ぐっすり眠れます。私は、将来人の役に立ちたい、神様に喜ばれることがしたいと思っています。私は、神様にお祈りしながら、人の役に立つことをしたいです。

ゆるされない罪はない(中学生、男性)

僕が初めて教会に行ったのは、プリサムエルに入った時です。その次の年の四月にサムエル幼児園に入りました。その時から教会学校に行きはじめました。そこで初めて神様のことを知りました。

 その時はまだ神様ってすごいなーとしか思っていませんでした。ろばの時に岡山市に引っ越しました。けれどサムエル幼児園に通ってました。やがて小学生になりました。僕が二年生まで通っていたのは伊島小学校という小学校でした。そして、三年生の時にSICAに転校しました。SICAに転校した理由は楽しそうだからでした。

 SICAや教会学校やバイブルキャンプのおかげで、イエスさまが十字架で僕の罪をせおって、身代わりになって死んでくださったことや、イエスさまが十字架で死んでくださったことを信じるといままでにおかしてしまった罪と、これからおかしてしまう罪を赦してくださることを知りました。けれどもなぜかイエスさまを信じているという自信がありませんでした。

 六年生になっても自信がありませんでした。けどグッバイ小学生で勉強するうちに、ゆるされない罪がないと知って、イエス様を信じていこうと思って自信がつきました。それに罪をほっておくと心が冷たくなったり自分の事が嫌いになったりして、地獄に落ちてしまうことも知りました。僕の罪を背負ってくださったイエス様を信じていきたいなと思って、洗礼をうける決心をしました。

 最後に僕のすきなみことばを言います。
『そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』(創世記一・三)です。そのみことばが好きな理由は、神様が光をつくられたとかいてあるからです。

イエス様を伝えていきたい(中学生、男性)

 僕は、教会に生まれた時から来ています。僕は、最初イエス様は、ただの物語の人物だと思っていました。ですが、五年生の時、小学科の先生が十字架にかけられたイエス様が自ら死んで僕たちの罪をすべて洗い流してくださり、イエス様は三日目によみがえられた話しを聞き、初めて洗礼を受ける決心がついて、イエス様に一生を献げたいと思いました。そして五年生より六年生の方がお祈りする回数が増えました。

 そして僕は罪というものは、お祈りしない事、神様のいいつけにそむく心だと気付きました。そしてイエス様は、そういう心を持ったとしても、十字架に架けられた事により全部赦してくださり、こんな僕でも愛して、救ってくださると確信しました。イエス様は僕に何が起こっても、助け導いてくださることを信じています。

 最後に僕が一番好きな御言葉を言います。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43・4)僕がなぜこの御言葉が好きなのかは、神様が僕をとても大切に思っていてくださり、イエス様を十字架に架けてくださるほどに僕を愛してくださっているからです。

 これからその愛に応えて、神様を伝えていきたいと思います。

神様は守ってくださる(中学生)

 私が、教会に行くようになったのは、一歳くらいの時です。兄がサムエル幼児園に通っていたので教会に行くようになりました。

 サムエル幼児園のころは、毎日、礼拝の時間に神様のお話を聞いていました。そして教会学校に行くようになって、神様のことが少しずつわかってきました。小学校三年生くらいから、第三礼拝にも出るようになりました。はじめの頃は、礼拝のお話もあまり聞けていませんでした。でも、五、六年の頃には、礼拝のときにもちゃんと聞けるようになりました。

 五年生のバイブルキャンプでは、自分の罪のことや、イエス様が十字架にかかってくださったことなどをお話ししてもらいました。心の中で思ってしまった悪いことでさえ、神様はわかっておられ、とても悲しまれるのだとわかりました。そして、イエス様は、私たちのために十字架にかかってくださったということがよくわかりました。そして、洗礼を受けたいと思うようになりました。でも、お父さんが許してくれるか、とても不安でした。でも、麻利子先生との学びで、神様は守ってくださると思いました。そしてお父さんにきちんと話したら、ゆるしてもらえました。お父さんもイエス様のことが信じられるように、お祈りしていきたいです。それから、教会のことに少しでも役に立てるようになれたら良いと思います。そして、前よりも聖書を読んだり、お祈りできるようにがんばります。

 私の将来の夢は、サムエル幼児園の先生です。あと、教会の奉仕ができたらいいです。最後に私の好きな御言葉を言います。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』(ヨハネ3:16)

全て神様を信じ委ねれば良い(青年/女性)

 私が、神様を知るきっかけになったのは、職場のオーナーであるKさんと奥様がクリスチャンで、聖書の事や、イエス・キリストについて、そして祈る事を教えて下さった事です。それから少しずつ教会の礼拝に行くようになり、赤江先生の家庭集会での学びを通して深く聖書や神様について知るようになりました。

 それまでの私は、聖書を読む機会も、知ることもなく過ごして来ました。「神様」という存在を、否定することも肯定することもなく、ピンチの時だけ「助けて下さい」と軽い気持ちで呼ぶだけでした。「仏様」と死んだ祖父の名も呼んだ気がします。

 そんな私が本当に神様を「全知全能の神」として信じるきっかけになったのは、今まで受験でも就職でも苦労することなく決まり、どんな悩みも自分で解決し乗り越えてきた私が初めて乗り越えられない壁にぶつかりました。転職し、何年かした時お店を任されるようになりました。期待もありうれしく一生懸命に神様の為、お店の為に頑張りました。しかし結果は虚しく成績は下がり、ポロポロと何人かのスタッフが辞めていき、今まで私は何をしてきたのだろうと悲しくなりました。自分がやればやる程うまくいきませんでした。そんな中オーナーに誘われ教会の学びに参加するようになり聖書の御言葉について勉強しました。その御言葉を解説してくださる赤江先生の言葉がなぜかスッと心に入り涙がポロポロ出てしまいました。そして仕事の事で悩んでいた事がほぐれ心が軽くなりました。

 その後、Kさんに頂いた本の中に「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)という言葉にひきつけられました。私は今まで自分でなんとかしようとばかり考え空回りばかりしていたことに気がつきました。そうか、神様を信じれば楽な気持ちになれる、だからあの時涙が自然に出て気持ちが軽くなったんだと感じ、全て神様を信じ委ねれば良いのだと思いました。

 そしてその思いを一層強くしたのが父の病気でした。父は十年程前に難病気にかかり、治療法がなく長く入院する生活が続いていました。入院した頃は私もまだ神様を知らず信じていませんでした。無口な父に照れもあり、素直に接することができず、殆ど見舞いにも行きませんでした。でも、神様を知るようになり、自然に父と素直に接することができるようになりました。四年前に、病状が悪化し骨髄移植を受ける際も、仕事を終えて行ける日は毎日でも病院に顔を出すようになりました。以前の私なら素直になれず出来なかったと思います。幸い、骨髄も父の妹と型が合い、手術も成功し、今では普通に生活しています。

 信じて祈り願うことで順調に行き、良い方向に向かっていく、神様のすごさ、成せる業に驚き、感謝しています。今までの私は本当に愚かでした。何でも自分でできるという自惚れ、傲慢さ、そんな私の罪のためにイエス様は十字架にかかり死んでくださいました。そして、イエス・キリストが自分の罪を赦し、私の救い主でありことを信じます。

 これからも神様を信じ、祈り願い、賛美し、良い行いが出来るよう神様のもとで奉仕致します。私が洗礼を受ける気持ちになれたのもKさん夫妻、赤江先生、そして教会の方々の祈りと御言葉、そして神様が待ち続けてくださったおかげだと思っています。

 私の救いの確信の御言葉は、
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(Ⅰヨハネ4・16)

私はあなたを知りたいのです(青年/女性)

私は大学卒業後一年間アメリカに語学留学をしていました。
サウスカロライナ州にあるアガペ イングリッシュランゲージ インスティチュートというミニストリーに基盤をおいたクリスチャンが経営する学校に通っていました。毎日アメリカ人だけでなく日本人のクリスチャンにも囲まれて過ごしていました。

 日本では教会に行った事はなく、私にとっては教会に行くことも初めてのことでした。礼拝のメッセージに関しては英語という事だけでなく信仰という面でも理解はできませんでした。しかし特に抵抗感を感じることはなく、自分の英語力をつけるためという思いや、友達がほしいという思いから、キリスト教にも触れていました。私は今まで特に何かを熱心に信じたりすることはなく過ごしてきたので、宗教というものに関してはあまり関わりたくない、自分はそういったものに頼らなくても大丈夫だという思いがありました。クリスチャンに関しても同様に感じていました。

 ある日、教会で進化論と創造論についてのセミナーがありました。そこで私は進化論派だったことを認識しました。進化論に関して学校で当然のように教えられてきて、信じるというよりむしろ常識のように思ってきました。たくさんのスライドを見聞きしていく中で、創造論がいかに無理なく自然な考えであることか、今までなぜ自分がそのことについて深く考えたことがなかったのか不思議にさえ思いました。私にとって創造論を知り、考えるいい機会となりました。そして、神という存在を考えるようになりました。私にとっては理解しがたくとても難しかったことを良く覚えています。まず神という存在は目に見えず確認できないのに、どうやってクリスチャンは信じているのか不思議でした。当時私は、知り会ったクリスチャンの友達とバイブルスタディーもしていました。私にとっては聞くこと全てが新しく、理解できないことばかりで、たくさん質問をしていました。

 そういった時間を過ごす中で、私は自分の目にうつし出され、自分で信じたいと思うものしか信じようとしていなかったことに気付かされました。罪があると言われても、自分は刑罰を受けたりしていないし、そんなに悪いことはしていないという思いから理解できませんでした。しかし死後、天国に行くか地獄に行くかと言われれば、悪いことはそんなにしていないので、多分天国かなというあいまいな考えを持っていました。この時誰が良し悪しの判断をするのだろうという疑問は芽生えはじめていました。また、隣人を愛せよという聖書のことばどおり、優しく愛にあふれた多くのクリスチャンを見ていく中で、彼らは自分とは違う神様にある基準を持った生き方をしていることがわかり、自分も信じることができたらいいなと徐々に思うようになっていきました。

 どうしたら神様を知ることができるかクリスチャンに尋ねると、祈り、聖書を読めばいいと教えてもらいました。「神様、あなたがそこにいるのなら私にわかるように教えてください。私はあなたを知りたいのです。」と祈るようになりました。

 しかし信じたいという思いはあるのですが、もし自分が信じたらこの先どうなるのだろうという一種の恐れがありました。自分の生活が変わり、いろんな制約の中で生きなければならない、息苦しい人生になってしまうのではという見えないことに対する不安でした。そのことが私を引きとめ、信じる決心ができず日本に帰ってきました。

 日本に帰ってからも続けて教会には行き、聖書を読み、祈り求める日々を送っていました。日本に帰ってから半年ぐらいたった頃、ヨハネの福音書14、15章を読んでいました。『私はあなたを捨てない、世が与える平安とは違う平安をあなたに与える、わたしの愛の中にとどまりなさい、わたしがあなたを選んだ』という御言葉を読んでいく中で、私は神様の大きな愛を感じ、涙したのを今でもよく覚えています。いかに神様が自分と言う存在を愛し、そして見捨てず、辛抱強く私が心を開くのを待っていて下さったかということが分かり、本当にうれしく感謝の思いでいっぱいになり、神様の存在を信じました。

 どうしたらよいのか、見えないことに対する不安はありますが、神様からの応答に素直に答える時、私のうちにやどる聖霊が働き、全てよきに取り計らってくださり、キリストに似たものとして新しくつくり変えられていくと信じています。神様からの呼びかけを自己中心的な自分の思いで消し去ったりせず、祈り求め、これからも期待して生きて行きたいと思います。

私を迎えなさい(婦人)

「神のなさることはすべて時にかなって美しい」伝道3・11

 全てに時があるように、今ここに神様を信じて歩もうとする私がいますことを感謝します。若い頃から、姉がクリスチャンということは知っていましたが、私は家業の商売が忙しかったこともあり、ゆっくりと聖書の話をすることはありませんでした。時折教会に関する本やテープ等を届けてくれていましたが、忙しさの中、隅へ隅へと追いやっていた様です。というのも、最近になって整理をする度に、それらの物がたくさん出てきて、少々驚くと共に、姉の想いの深さを感じています。

 それまで仕事一筋に生きてきた私にも60歳の時転機が訪れました。胆石の手術をすることになり、検査を続けていたら、大腸に癌が見つかったのです。しかし、戸惑う私に主治医は、「あなたはラッキーな人だ」と言い続け、手術は無事成功しました。その時赤江先生もお見舞いに来て下さり、お祈りして頂きました。姉は、見舞いの品にと聖書を持ってきてくれましたが、私は興味のわかないまま本棚にしまっていました。

 その後、孫がサムエル幼児園に通うようになり、行事の度に教会へ行くようになりました。クリスマスのページェントで孫が演じます姿をくいいるように見ているうちに、少しずつイエス様のことを知るようになりました。その後、姉の勧めで家庭集会やシャロームに参加させてもらうようにもなりました。

 私が教会に行くことは、姉や娘がとても喜んでくれていました。そのうちに娘は洗礼を受け、私にも勧めてくれていましたが、どうしても決心がつかないまま教会に行っていました。そんなある日いつものようにシャロームに参加していた私に、赤江先生が説教の中で「イエス様を信じるだけで救われます」と言われました。イエス様が私の心の戸をコツコツとたたいて「今すぐ開けて。」と言われ、「どんなに罪深くても、きたなくよごれたままで、心の整理がつかなくてもいいんだよ、私を迎えなさい」とおっしゃってくださいました。

 その時、私は心の中でイエス様を救い主として信じました。イエス様が十字架にかかって死んでよみがえってくださったことをはっきりと信じたのです。ここで私は決心がつき、その場で受洗をお願いしました。そののち、シャロームでたくさんの方々から祝福のお言葉をいただきました。教会の皆様方の長い間のお祈りを感謝しています。

神様の愛の深さ(婦人)

 子育ての時期、なんとなく思い悩んでいる時に知人から教会に行ってみないかとお誘いを受けました。なんの抵抗もなく行き始めて、教会で説教を聞く度に胸のつかえがなくなるのを感じました。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11・28)

 昭和42年12月24日に受洗致しました。感謝でした。お願いばかりのお祈りでした。昭和43年、長男が生まれた頃より教会の方も休みがちになりました。借家住まいの狭い部屋で家庭集会をしてくださったり、伝道師の先生が訪ねてくださいました。長女も保育園にお世話になり、日曜学校にもお世話になり始めました。昨日のことのように思い出されます。住まいも社宅に移り長男も保育園、教会学校を楽しみに通わせていただきました。その中で主人も伝道師の先生が訪ねて来てくださり、教会の礼拝に出させていただき本当に感謝でした。

 昭和52年7月、中川町に小さいながらも我が家を持つことが出来ました。その頃から私は神様から離れていってしまいました。家の支払いの為働くことになり、お友達の紹介で建築金物店に就職致しました。日曜日だけのお休み、家の方も忙がしく馴れない仕事で辞めたい気持ち!!世間では、石の上にも三年とか。私は石の上にも五年でした。二〇年近く働き、長女も嫁ぎ、息子も世間並みの教育を受けさすことができました。

 イエス様から遠く遠く離れてしまった私でしたが・・・神様は不信仰な私をとらえて下さったのだとわかる時がきました。いつの頃か、家族のお弁当作りをしていたころ5時20分頃に起き、台所の携帯スイッチを入れました。「西大寺キリスト教会の赤江です」とやさしいお声。教会に行ってみたいと思ったり、西大寺教会って何処に在るんだろうとの思いでした。毎週ラジオを聞く度に教会が懐かしく思い出されました。

 平成9年に58才で退社致しました。退社後は朝早く起きることもなくなり、赤江先生の御言葉も聞けなくなりました。身体の健康の事を思い主人と歩いておりました。また、車の免許も取得したいと思い、教習所に3月で学生ばかりの中で勇気を出して申込用紙を提出しました。6月には待望の免許証をいただきました。これで庭先なら乗れて主人にも頼まなくて買い物に、カラオケにも行けるようになりました。

 昨年5月頃Y姉よりメールで「私教会に行ってるんよ、心癒やされるし良いよ。行きましょう。」と誘われました。その時思わず私昔洗礼を受けていましたと、自分の不信仰を棚に上げて言ってしまいました。その教会が西大寺キリスト教会の赤江先生のところだと聞いて、もうびっくりしました。あのラジオの先生の行ってみたかった教会だったのです。

 何十年もの間教会から離れ、クリスチャンの妹が「ホコリに埋もれたお姉ちゃんをイエス様が引き上げてくれたんよ」と言いました。神様の愛の深さになんとも言いようのない涙が溢れてきました。車で日曜礼拝に来られるのもこんなに罪深い不信仰な私にも神様が計画して下さったのではと感謝でいっぱいです。今回転入会の中でイエス様の救いにあずかっている事をもう一度確信出来て感謝しております。私の好きな御言葉です。『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』 (Ⅰコリント13・13)

友に励まされて(婦人)

 私と神との出会いは、かなり以前になります。四才のころ、母のいない私を父はよく近くの幼稚園に連れて行きました。そして、その幼稚園から小学校に進みました。「いい子になるのよ」が口ぐせだったシスターに、よく頭をなでていただいた記憶が今でも鮮明に思い出されます。

 中学校になった頃から自然に足も遠のき、その後結婚もし、一男一女の母となりましたが、私のわがままから離婚し、子どもを手放す事となり、以後、後悔と罪の重さに、心底心の晴れる日はなく、心の中でいつも子ども達に詫びていました。それに加え、今度は病院で癌を宣告され、これも私が犯した罪のむくいと耐えていました。そんな折、ふと目に止まった教会に、懐かしさとすがりたい一心で飛び込み、人知れず心の安らぎを求めていました。

 平成18年、当教会の夕涼み会に誘っていただいたのを機に、少しずつ身体の楽な日をみて、集う事となりましたが、夜10時頃から夜通し働き、朝9時まで一睡もしないで帰宅の私には、礼拝は少しきつくどうしても、いねむりをしてしまいます。申し訳なさで、「もう行くのをよすわ」という私に、「頑張ろう、頑張ろう、いねむりをしても神様は許して下さる、わかって下さる。」と、迎えに来続けてくれた友に、心よりありがとうを言います。

 そしてこのような私の為に、罪深い私の為に、イエス様が身代わりとなり、十字架で死んで下さった事も知りました。復活されたイエス様の永遠の命を頂くことができた事を感謝しました。子ども達に教会の話をしたら、お母さんよかったねぇと、とても喜んで賛成してくれました。神に見守られている事と実感がヒシヒシと伝わり、目頭が熱くなります。心より神を信じます。
『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』  使徒の働き 16・31

神の御心に触れて(婦人)

 沖縄から岡山に来たのは1974年のことでした。私にとっての大学生活は自立手段を求めるものであり、生きてゆく希望でもありました。しかし現実は厳しく、新しい生活の始まりは私にとっては決して平坦ではありませんでした。むしろ希望とか安らぎとは縁のない、闘いの日々の始まりでした。私の気持ちはいつの間にか私の周りの社会から自分を守ることが習慣となってゆきました。学生時代に知り合った夫と卒業と同時に結婚、三人の子育てと耳鼻科医としての研修との両立は大変厳しい事でした。今から思えば若さゆえにのりきれたのでしょう。

 1988年6月より山陽団地で夫とともに診療所を開設し、自分の能力と努力のみを頼りにただひたすら歩んできました。約8年前にポール・ブリジマン先生とお知り合いになれたことから夫婦で英会話を習い始めました。英会話の後にバイブルタイムがあり、そこで生まれて初めてのイエス様の御言葉を聞くことを経験しました。神の御国の話は、全く見当がつかず、視点を変えるとずいぶん自由な発想ができるのだなと思うくらいでした。しかし、御言葉は徐々に私の心と生活態度をかえていきました。今まで思いもつかなかった不思議な喩え話は、常に自分なりに正しくありたいと思うかたくなな心を溶かし始めていました。その後、ブリジマン先生御一家とのお付き合いはありましたが、多忙のために気力も体力も低下していましたので一年ほどで英会話を終了しました。ただイエス様の御言葉の内容は、理解を超える世界がありそうだなと、私の心にいつまでも残っていました。

 2005年の1月から、聖書の学びのためYさん御夫妻のお宅に夫とともに通わせていただくことになりました。人間関係に強いストレスを感じ、仕事以外できるだけ人との接触を避けていた私には大きな変化でした。Yさんは夫の高校時代の同級生で、そのお人柄は以前から夫より聞いていたことと、奥様は私と同じ沖縄出身であることの気安さは学びの助けになりました。すでに医学の実践を通じて絶対不変の真理の存在を感じていた私はそれが神様であることがしだいに信じられるようになりました。

 3月6日より山陽恵キリスト教会の礼拝に預かることができました。3月20日は説教題が「唯一の救い」でした。創世記より計画され成就されたイエス様の十字架の購い、その何の矛盾もない完璧な御業の前に私の心は打ち砕かれてしまいました。「神様、あなたの御心も知らず自分勝手にふるまっていた私を赦して下さい」と祈りました。そして神様の豊かな愛を与えられ心の平安を得ることができました。

 こうして私の心の扉は開かれて今日に至るのですが、元々読書好きの私には聖書に触れる毎日が喩えようもない喜びとなりました。今の私があるのは、昔の私自身から思いましたら、何か不思議な力によって導かれたとしか思えません。でもその力は、正しい私を正しい道に誘ってくれるイエス様自身だと確信しています。

頑なな心に福音が届いて(婦人)

 この私がイエス様を信じるようになろうとは。思い返してみると、様々な出会い、導きがあり、本当に神様の御業としか思えない。

 長女が生まれて1歳になる前、共に歯科医である主人と私の実家近くでの開業を考えて西大寺の地に引っ越してきた。数年過ごすうちに、近所の奥さんにサムエル幼児園のことを教えてもらった。初めはキリスト教って近寄り難いと思っていたが、モンテッソーリに惹かれて長女の入園を決めた。これが西大寺キリスト教会へ通うきっかけだった。西大寺キリスト教会へ通うようになると、今まで知らなかった人達に沢山出会った。正直びっくりした。神様を信じている人達である。3年間、私は染まるまいと距離を置くよう心がけた。長女卒園前の卒直な感想は「世の中にはこういう人達がいるということを認められるようになった」ことだった。

 このとき神様は私に大きなプレゼントを下さる。第2子妊娠だった。教会を去ろうとしていた私に、まだまだ続けて来るようにと授けて下さったのだろう。
 開業した歯科医院も何とか順調、家も建て、次女も生まれて、周りから見ると恵まれた状況だった。しかし、私はそれに安住し、いい気になり、いつの間にか一番身近で大切な家族の気持ちを考えなくなっていった。

 やがて次女もサムエル幼児園に通うようになってから、神様はそんな私に試練を下さった。その解決策はどこにも見当たらなかった。苦しい中で藁をも掴む思いで、来たのは教会だった。自分の思いを牧師先生に聞いて頂ける。神様に祈って頂ける。教会に集う人達はそっと寄り添って下さる。他ではあり得ない大きな心の支えを頂いた。
 そのうち、自分の力で何とかしようとすればする程事は裏目に出てしまうのに気がついた。あくせくせず信じて待とうと決めた後、不思議と事態は好転したのだった。神様からの大きな恵みだった。

 このままでは終われないと、その後も学びを続ける。実証できないことは信じられないと思っていた。自称サイエンティストのはしくれが、形而上学的宗教真理もありかと思い始める。私の心の頑なな石の表面に垂らされた水が弾かれずに広いがっていくのを感じていた。 日曜日毎の礼拝、家庭集会、聖書を学ぶ会、また個人的な学びをしながら、イエス・キリストを信じるように変えられていった。

 そして、クリストファー・サン先生の集会だった。私の心の固い大きな石の扉を力強く繰り返し叩いてくださったのである。イエス様はここにいて下さる。私達の罪の為にそして私の為に十字架に掛かってくださって、復活されたイエス様がいて下さることが、確固たるものとして信じられるようになったのである。
『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』ローマ人への手紙10章10節

心が軽く幸せ(婦人)

 私の教会との出会いは、娘のサムエル入園でした。言葉が遅れ気味だった娘を集団生活に入れたほうがよいとアドバイスされ探していた12月、クリスマス賛美礼拝の広告の裏で見つけたサムエルの園児募集の文字に「ダメモトで電話してみよう」という奮い立たされるような気持ちになったことを不思議に思っていました。

 それでも、それまでのいろいろな体験から宗教不信になっていた私は、幼稚園での行事には出席していたものの、すぐ神様を信じようという気持にはなれず教会には足をむけませんでした。あっというまに卒園を迎え、このあたたかなサムエルと離れなければいけないという時になって初めて、自分が神様から離れてしまうことに恐ろしさを感じ、毎週教会に通わせてもらうようになり、少しずつ学びもしていただくようになりました。

 気がつくとそれから6年の月日が過ぎていました。その間に、娘を救急病院に担ぎ込んだこと、学校でのトラブルなど、いろいろな出来事を通して、「神様は本当に生きておられ、こんな私のためにも細やかに働いてくださっているんだなあ」ということをいくつも経験させてくださいました。

 そして、昨年のクリスマス賛美礼拝のメッセージを聞いているとき、ふと、「イエス様の十字架によって本当に私の罪は赦されているんだなあ」と感じることができ、信じる決心が与えられたのです。

 高慢と自己嫌悪を繰り返す自分のことが赦せず苦しんでいた私は、それから少しずついろいろなことから解放されていきました。今では「罪が赦されて平安を与えられているということは、こんなに心が軽く幸せなことなんだなあ」と思えるようになりました。

 また、
いつも根拠のない不安に追いかけられていましたが、
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31:6)
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:11)
「決して私を捨てることのない最強の神様がどんなときでも最善をつくしてくださっている。」と毎日安心して過ごすことができています。

 まだまだ目の前で起こる小さなことに一喜一憂してしまうこともありますが、嬉しいとき、苦しいとき、悲しいとき、いつもそばにいてくださる神様を見上げていきたいと思っています。

生まれ変わるラストチャンス(壮年)

私とキリスト教との出会いは、七年前の息子のサムエル幼児園入園が縁です。
 幼い子供に宗教教育を行うことは反対で、入園を拒んでいましたが、妻からモンテッソーリ教育の大切さを知らされ、妻の意向に負け入園を承認しました。

 キリスト教とはいかなるものか、興味を抱き、日曜日に行われる幼稚科の礼拝に参加し、紙芝居を通じて聖書に出会いました。一年間息子と教会学校に通い、もっと聖書について学んでみたいと思い、自然と導かれて礼拝に参列するようになりました。礼拝では牧師から聖書を通じて、過去の人間が犯した罪からの更正について学び、現代にも合い通じるものを感じるようになりました。

 私は昔から対人関係が苦手で、社会に出てから職場の人間関係、仕事面で悩んでいました。結婚生活に至っても、妻から貴方は自己中心的であり、息子の教育については理想を求めすぎると小言を言われ悩んでいました。こういう状況下のなかで、礼拝に参列することにより、聖書を通じて心の平安と安らぎを求める一方で、自分自身を変えたいと願い続けました。

 気がついたら七年間がたっており、洗礼を受け清くなろうかと心が動かされる機会が何度となくありました。その間には、教会員の方々と交わりを持ち、「永遠への道」の学びやファミリー集会を通じて、イエス・キリストの教えについて学びました。 学びを通じて教会員の方々や牧師に励まされ、天国行きの列車に乗ってみようとの思いが一度ありましたが、イエス・キリストの恵みを素直に心に受け入れることができませんでした。 心が迷うのは私自身の性格にも問題があり、昔から決断力が乏しく、判断を他人に頼る傾向があります。

 そんな私が洗礼を受けようと決意しようと思うようになったのは、今年に入ってからです。職場の配置転換による仕事の挫折や、家族からの礼拝へ参列する意義と成果に対する批判で心がやつれ、イエス・キリストへの救いの思いが強くなりました。七年間毎週礼拝に出続けても人生なにも変わらないじゃないか、私自身の力ではもうどうにもならない、教会から離れるか留まるかけじめをつけようと決意しました。

 そんなある日、礼拝メッセージで、イエスが漁師に「深みに漕ぎ出して、網をろして魚を取りなさい」と言われ 、漁師が「おことばどおり網をおろしてみましょう。」(ルカ5:4,5)と答える場面が語られました。漁師は素直にイエスのことばに従い魚が捕れました。その話を聞き、ペテロが決意したように、私もイエス・キリストを素直に信じ、受け入れてみようかと決意しました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 私はこのみことばにより、イエス・キリストを信じ、過去の罪を取り去り、ついに新しく生まれ変わることができました。

神様に喜ばれる人に(中学生)

私は、赤ちゃんの時から教会に通っています。だから、大きくなっても毎週教会に行くのがあたりまえでした。サムエル幼児園に入り、小学三年生の時にSICAに入りました。...全文を読む
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ゆるされない罪はない(中学生)

僕が初めて教会に行ったのは、プリサムエルに入った時です。その次の年の四月にサムエル幼児園に入りました。その時から教会学校に行きはじめました。そこで初めて神様のことを知りました。...
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イエス様を伝えていきたい(中学生)

僕は、教会に生まれた時から来ています。僕は、最初イエス様は、ただの物語の人物だと思っていました。...
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神様は守ってくださる(中学生)

私が、教会に行くようになったのは、一歳くらいの時です。兄がサムエル幼児園に通っていたので教会に行くようになりました。...
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全て神様を信じ委ねれば良い(青年)

私が、神様を知るきっかけになったのは、職場のオーナーであるKさんと奥様がクリスチャンで、聖書の事や、イエス・キリストについて、そして祈る事を教えて下さった事です。...
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私はあなたを知りたいのです(青年)

私は大学卒業後一年間アメリカに語学留学をしていました。
サウスカロライナ州にあるアガペ イングリッシュランゲージ インスティチュートというミニストリーに基盤をおいたクリスチャンが経営する学校に通っていました。...
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私を迎えなさい(婦人)

「神のなさることはすべて時にかなって美しい」伝道3・11
全てに時があるように、今ここに神様を信じて歩もうとする私がいますことを感謝します。...
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神様の愛の深さ(婦人)

子育ての時期、なんとなく思い悩んでいる時に知人から教会に行ってみないかとお誘いを受けました。なんの抵抗もなく行き始めて、教会で説教を聞く度に胸のつかえがなくなるのを感じました。...
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友に励まされて(婦人)

私と神との出会いは、かなり以前になります。四才のころ、母のいない私を父はよく近くの幼稚園に連れて行きました。そして、その幼稚園から小学校に進みました。...
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神の御心に触れて(婦人)

沖縄から岡山に来たのは1974年のことでした。私にとっての大学生活は自立手段を求めるものであり、生きてゆく希望でもありました。しかし現実は厳しく、新しい生活の始まりは私にとっては決して平坦ではありませんでした。...
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頑なな心に福音が届いて(婦人)

この私がイエス様を信じるようになろうとは。思い返してみると、様々な出会い、導きがあり、本当に神様の御業としか思えない。...
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心が軽く幸せ(婦人)

私の教会との出会いは、娘のサムエル入園でした。言葉が遅れ気味だった娘を集団生活に入れたほうがよいとアドバイスされ探していた12月、クリスマス賛美礼拝の広告の裏で見つけたサムエルの園児募集の文字に...
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私はあなたを知りたいのです(壮年)

私とキリスト教との出会いは、七年前の息子のサムエル幼児園入園が縁です。幼い子供に宗教教育を行うことは反対で、入園を拒んでいましたが、妻からモンテッソーリ教育の大切さを知らされ、...
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